余部鉄橋をめぐる旅

ボクが関西を離れたのが2007年3月。その時には、まだ、朱に染まったトレッスル橋があった。時代は変わるもので、たかだか4年しか変わらないのに、余部鉄橋がつけ代わってしまったので*1、すごく久しぶりに、鉄分補給をかねて行ってみた。

スタート

旅行の日は、5/5~6の1泊2日で鳥取をめぐって帰ってくる。さて、5/4といえば、きしくも新生大阪駅が公開された日でもある。早速、「何これー?」となってしまった。

出迎えてくれたのは、丹波路快速。私がいた頃は、221系しかなかったものだが、これも時代の影響か、223系がJR宝塚線まで侵食するしていた。これも噂には聞いていたのだけど、実際に体験してみると、宝塚線もメジャーな路線になったものだと思ってしまう。もう、117系もこの路線では見ることができないんでしょうね。

そして、一番驚いたのが、223系が篠山口以降、さらに福知山~城崎温泉間でも運行されていたことである。この区間は、113・115系の中間車を無理やり先頭車に改造した食パン車が走っているものだと思っていたのに、蓋を開ければ、ローカル線にはにつかない223系。まさか、城崎までずっと223系の恩恵をあずかれるとは、思っていなかった。


キハ47系と223系

余部鉄橋

城崎からは、キハ47系ディーゼル車両。やはり、このエンジン音が旅の気分を盛り上げてくれる。車両は、円山川から離れて日本海の険しい地形をトンネルを使用してかけていきます。

そして、列車は鎧駅に到着。この駅も風情があって良い。最後のトンネルを抜けると、まるで列車が余部の集落を飛んでいるんじゃないか、と思うぐらい、視界が一気に広がります。

しかし、何とも物悲しい。あの雄大なトレッスル橋が、わずか4本のコンクリート橋になってしまうとは。今まで知らなかったのですが、明治の時代、余部はまさしく陸の孤島。この余部鉄橋は、海からの水運に全てをかけて建設されたそうです。そして、材料は全てアメリカからの輸入品。もし、日本海の大しけが悪さをしていたら、山陰本線の開業も大幅に遅れていたんでしょうね。また、太平洋戦争で大きな打撃を受けなかったのは、不幸中の幸いというものです。


途中で切れているのが物悲しさを語っています。

次の浜坂行きの電車まで1時間近くあったので、付近を散策。展望台には登れない、と聞いていたのですが、途中まではいけるらしく、行ってみました。しかし、新しい橋梁しか見えないのが少し不満。

そして、少し余部鉄橋からは離れている虹と谷のギャラリーへ。ここでは、無料で余部鉄橋の映像や写真などを見ることができます。オナーの粋な計らいに感謝。


久々に訪れて

余部鉄橋がなくなったというのは、兵庫県に生まれ育った人間としては、やはり一抹の寂しさを覚えます。JR西には、何とか余部鉄橋の痕跡を残してもらいたい。そして、偉大なるローカル線、山陰本線をいつまでも維持して欲しいなぁ、とも思います。

*1:もちろん、計画はあったのだけど