家族4人+犬一匹の生活が始まりました

長男の出産のため、3月後半から実家に戻っていた家族達が昨日戻ってきました。


案の定、今まで一人だったのが、いきなり4倍に膨れ上がるわけなので、ごみの量からしてボリュームが違いすぎる。そして、何よりも時間配分が思いっきり変わった。日中、子どもが起きているときは、Macを触る時間もなく、本を読む時間もなく、ひたすら子ども達と遊ぶことに時間が費やされる。長女と遊んでいたと思いきや、長男が泣き始めるので、ミルクを作って飲ましたり、次は、長女が泣き始めたり、まさに修羅場。


でも、このような時間は人生で一度しか過ごすことができないと考えると感慨深い。


最近、大阪の2児育児放棄の事件を聞いて、僕は実は一定の理解を示していた。人間誰しも、と言うわけではないと思うけど、人によっては、突然全てを投げ出したくなるときがある。僕も、今まで2度ほど(ノ`Д´)ノ彡┻━┻となったときがあった。


1度目は大学を放り投げたくなった。正確には、同じ研究室にいた先輩なのだが、同時に大学もどうでもいいや、と思ってやめようと思ったので、放り出した対象かもしれない。


2度目は遠距離の元彼女。付き合ったり、別れたりするのにも面倒で、ある時、一切の連絡を取らずに投げ出してしまった。


もちろん、両件とも自分が悪い。そして、まだ放棄した対象が確固たる存在の大学と、一人の成人した女性だったからよかった。当たり前なんだけど、大学は僕一人がやめようがどうしようが、あいかわらずそこにある。元彼女に対しては、大学に比べると大きな影響があったに違いないが、それでも、一人で対処できる術は持っているだろう*1


要は両方とも放棄することができた存在だったのだ。


それに対して、大阪の育児放棄の事件はどうだったのだろう? 何かを捨てた、放棄した、と言う点では、前述のボクの件と何ら変わらない気がする。しかし、決定的に変わるのは、捨てた時の影響がとてもとても大きい、と言うことだろう。少なくとも子供たちは自律して生きていけない。収入なんかも当たり前だけど、それ以前にもっと基本的なところで、他者の助けを必要としていた。彼女はそれを捨てた。


二人の子どもを育てるのは、容易ではない。昔の人は、よく5人とかそういった単位の子どもを育てたものだなぁ、と思う。確かに、祖父母などのアシストもあっただろう。でも、なかった人もいたはずだ。当時も育児放棄とかの事件があったのかは、ぼくは知らない(きっとあっただろう)。


今、二人の子どもを見ながら思う。もし、自分一人で子育てしようとすると、絶対に人格が崩壊してしまうなぁ、と。一時的に、一人で面倒を見ることはできる。でも、1日のうち、何時間かは誰かと分担しあう時間がないと、きっと身がもたない。


今回の大阪の件、本当に放棄したのは、子供たちではなく、周りのサポートなんじゃないだろうか? おそらく、手を差し伸べようと思った人は、何人かはいたはずだ。でも、それを放棄して、破滅へと向かって行ってしまったことには、一人の父親として悲しいことだと思う。


ミナミで風俗嬢として働いていたらしいが、それだけの覚悟があるのならば、なぜ他者からの援助を全て放棄してしまったのだろう? 彼女が捨てないといけなかったのは、自我の虚栄心だったのかなぁ、とコレを見て思った。

http://twitter.com/tkuro11/status/20625320868

*1:本当は、もっと誠心誠意話すべきだった